depuis1982

「クラブ・デ・シェルシェ」とは…

Amical de Cuisine Français des Paysanes

 我々の会は、アミカル ド キュイジーヌ フランセ デ ペイザン・・・、直訳すると「田舎者のフランス料理同好会」といったところです。
 日本のフランス料理界は、今も昔も東京が中心と言われています。その情報量と物流において首都東京が断然有利であることに変わりはありません。
 しかし、本家フランスにおいてもパリだけに三ツ星のレストランがある訳ではない様に、ここ日本にもその土地に根差したフランス料理を提供する志を高く持った料理人たちが沢山います。
 この会は、本物のエスプリと確かなロジックに裏付けられたフランス料理を地方にいながらも探求し続ける、志のある料理人達の集う会です。

「クラブ・デ・シェルシェ」について…

 1970年代フランス料理の世界が、ヌーベル・キュイジーヌという名のもとで大きな変貌を遂げようとしていた頃、当時フランスで修行してきた料理人たちが次々と帰国しマスコミに注目されるようになり、東京の「クラブ・デ・トラント」を始めとする異なる職場の料理人達の交流が活発になってきました。
 その頃新潟では、ホテル業界もこの流れを受けて新フランス料理を提供することが主流になり、フランス料理の看板を掲げるいわゆる街場のフレンチが次々と生まれ始めました。
 初代会長である渡辺明氏が自店「ボン・ナ・ペティ」を開いたのもこの頃です。

 中央(東京)の活発な調理人同士の交流をよそに、当時のフランス料理に携わる新潟の料理人たちは圧倒的に職場ごとの帰属意識が高く、各職場内だけの情報交換だけにとどまっていたとのことです。
 そこでかの渡辺氏が、当時の「イタリア軒」の総料理長だった早川清氏を中心に有志を募り、職場の如何に関わらない、フランス料理に携わるシェフクラスの人たちの情報交換や懇親を目的としたこの会を発足させました。1982年の事です。

 当初、司厨士協会を中心とした調理人の活動もありましたが、渡辺初代会長はその縦割りのシステムを快く思っていなかったと振り返ります。
 直接、東京の「クラブ・デ・トラント」に交渉し有名なシェフを新潟まで呼び寄せて講習会を開いたり、一般の調理師にも無料で公開したりと新潟のフランス料理界のスキルの向上に尽力されました。
 その運営費用は、会員からの会費でまかなわれ他の営利目的の団体と一線を画していたのも見逃せない事実です。

 そして現在、初代会長の志を受け継ぎ、年に一度開催している料理コンクールも二十数回目となりました。
 参加費用は選手から頂きますが、このコンクールでは各職場で第一線で働くシェフたちが、このコンクールに向けて地道な準備に携わっています。その会費の一部もこのコンクールに費やされています。これらの事実からも、私たちはまさしくボランティアの団体であることに変わりはありません。